PENYA F.C.BARCELONA JAPAN

第4回 ーモダンなバルサー

MARKETING手法をクラブのマネジメントに取り入れ、ブランドとしてのバルサを徹底的に管理・強化し始めます。
そしてSOCIOとかPENYAという概念を国外に輸出し、積極的に海外展開する事で一気にバルサをグローバル化させました。
ヌニェス、ガスパール会長時代は、私的にはバルサの『昭和』時代と定義しています。そして、その昭和が終わりいよいよ『平成』がやってきます。
一気に近代化するラポルタ会長、ロセイ会長と今のベルトメウ会長までの時代です。この時代の劇的な変化を面白く、また興味を持って追っかけ、見続けてきました。
私自身が個人的にバルサと直接関わるようになったのが、ガスパール会長時代後期。『昭和』の終わりから『平成』に代わるタイミングでした。

話のようにガスパール会長ご本人から日本でのPENYA設立を要請されました。そして2002年に10年に及ぶスペイン駐在を終え、日本に帰国してからPENYA JAPANの設立準備にとりかかり、2003年PENYA登録が完了します。時を同じくし6月の選挙により、ガスパール会長の後任としてラポルタ会長時代に突入したのです。
ここでバルサは会長だけでなく、幹部、スタッフメンバーの世代が一気に若返り、マネジメント手法も急速に近代化されました。
現在、多くの皆さんのイメージにあるグローバルブランドとしてのモダンなバルサの始まりだと思っています。
いわゆるMARKETING手法をクラブのマネジメントに取り入れ、ブランドとしてのバルサを徹底的に管理・強化し始めます。
そしてSOCIOとかPENYAという概念を国外に輸出し、積極的に海外展開する事で一気にバルサをグローバル化させました。
ユニパートナーのNIKEとのタッグで一気に加速してゆきます。
戦略市場としてアジアにも目を向け始め、日本遠征や世界でのソシオ勧誘を始めたのもこの頃です。
そして日本でもSOCIO、PENYAといった言葉が少しずつ出回り使われるようになりました。バルサはユニフォームにスポンサーをつけずにソシオの会費だけで財政をやりくりするというクラブポリシーで世界に類を見ないユニークなクラブとして知られていました。当時のファンになった人たちには、そこが好きになりCULEになったという方も多いのではないでしょうか。
MAN-Uからイケメンの7番を移籍させコマーシャリズムの極致のように対極にあった、ショッカー(笑)の白いシャツ軍団とは一線を隔す!ということで我々CULE Japonesの心の中にぐっと入り込みました。(今ではその後の、経緯が色々とありこのポリシーは崩れてしまいました。この展開では実は私も間接的に諸々絡んでいたので、ここでは書けませんがメンバとの会合等で、私が知る、そして話せる範囲での『裏話』をお話したいと思います)


92年から始まった『高度成長期』を経て『平成』を迎え一気にバルサがグローバルブランド化が加速してゆきます。 
チームはロナウジーニョ時代、第二全盛期、いわゆるDREAM TEAM 2の始まりです。
そして我がPENYAもアジア戦略の先鋒・旗振り役としてクラブと連携をしながら立ち上がってゆくことになります。 
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