PENYA F.C.BARCELONA JAPAN

第12回 ー「FC TUBAZA」ー

90年代の終わりから2003年位までのわずか五年間程度しか存在していなかったが、フットボールを 愛するバルセロナ在住の日本人だけで構成された幻のチーム、それが『FC TUBAZA』。
シーズンオフど真ん中でフットボールネタも少なくクレも一休みの寂しい時期。選挙に関わる人たちは大変だろうが 中立な立場であるべきPENYAとしては誰が会長になろうと、バルサをサポートするだけ。
さて、そういうタイミングなので、今回は、バルサの話から離れ、この写真のエンブレムの草フットボールチームの話。
今から15年以上前にさかのぼる。かつてバルセロナに、『FC TUBAZA』と言う名前のフットボールチームがあった。
丁度90年代の終わりから2003年位までのわずか五年間程度しか存在していなかったが、フットボールを 愛するバルセロナ在住の日本人だけで構成された幻のチーム、それが『FC TUBAZA』。

90年代の日本は、まだ今程、欧州フットボールに関する情報が十分とは言えず、バルセロナはまだ海の向こうの遠い国だった。
そんな中、フットボーラーには憧れの地であるバルセロナに先駆者として、そしてチャレンジャーとして飛び込んできた日本人が何人かいた。
今でこそ、バルセロナには百人単位での日本人のフットボール関係者がいるが、当時は本当に指折り数える程の数。
その先駆者たちが後に、日本に戻りスペインのフットボールを伝え、語り、そして今がある。
欧州フットボール文化をいち早く日本のフットボール業界に伝えてくれ、各方面からその発展を支えたキーマン達だ。

元日本代表五輪監督、現在J2から昇格した松本のチームを率いるS氏、雑誌number始め各種メディアで活躍のスポーツライター草分けK氏、 車椅子のサッカーマンと言えば誰でもご存知、そして我が副会長の山田の人生に大きな影響を与えたH氏、 GM時代からの手腕を買われ、今やJ1チームの社長であるO氏、毎試合カンプノウに足を運び、実際に自分で撮った写真を日本サッカー雑記に送り続け、 サッカーカメラマンというジャンルを作ってしまったS氏、何の伝もなく裸一貫でバルセロナに来て、帰る時にはプリメラチームのサンタンデールの トレーナーにまで上りつめた我らが副会長のY氏、同じくカタルニアダービーの敵チームESPANYOL下部組織でトレーナーを勤めたM氏、 育成世代のメソッドを学ぶために知る人ぞ知るバルセロナの名門クラブEUROPAでコーチングを基礎から学び今の国内で少年クラブ立ち上げ監督をしているA氏、 日本のフットサルリーグ設立と発展の功労者であるRM氏、そしてその弟であり、実は日本人として初めてバルサのユニを着た(ホッケーチームだが)YM氏。。
そしてその昔の学生時代に少しだけサッカーをかじって、運良く聖地バルセロナに来てしまった私を初めとするオヤジサッカーサラリーマン数名。
この他にも、スペイン料理の調理見習い、バルセロナの有名日本食レストランのオーナー子弟等々。今改めて思うと、すごい面子の集まりだ。

それぞれ、帰任タイミングが違い、入れ違いはあったが、いつも大体10〜15名前後のメンバーが揃い毎週金曜日の夜、TIBIDADOのふもとにある フットサル場に集った。
当時スペインでは、日本人とフットボールなんて全く結びつかず、日本人にフットボールは理解できるのか?ボールが蹴れるのか?という程度の認識。
そこで奮起したのがこの面々。日本にもフットボールはある!Jリーグも出来た!俺たちにだってボールは蹴れる!スペイン人に見せてやる!
という熱い思いとノリだけで結成、バルセロナの公式フットサルリーグに加盟したスペイン初の日本人チーム、それが『FC TUBAZA』だ。
実際、ガチでマジで毎週これに取り組んだ。娯楽目的のサークル活動ではなかった。皆、中高とそれぞれの地元で相当厳しい経験してきた連中、 やりだすと手が抜けない。私も、40歳にして、たばこを辞めたし(今でも辞めたまま)これに合わせてジムにも通い始めた。
先記のように錚々たるメンバーであるが、スペインの草の根は凄い!中々勝てなかった。いつもリーグで下位争いをするような感じだった。

こうして書いてみると本当に懐かしい。残念ながらこのメンバー達が今、一堂に集う事はないが、それぞれの活躍はメディアなどを通じて近況を知る。
今でこそ、日本で当たり前の様にスペインのフットボールが語られ、リーガ、クラシコ、ティキイタカ等々、色んな言葉が使われているが、 このFC TUBAZAのメンバー卒業生たちこそが、その源流であり、伝道者だと思っている。その後、各位のやり方で、スペインのフットボールや 文化を日本に伝え続けて来た。

このチームのエンブレムはバルサのまねをして日の丸とカタルニアの国旗、その下に日本のフットボールが世界に羽ばたくようにと ツバサを大きく広げたシンボルをあしらった。試合が終わると夜の11時を回るのだが、いつも、行きつけの深夜営業のChineseに行き、 時には朝までフットボールを語った。その飲み会の席でチャチャっと書いて作ってしまった様な紋章。
今、改めてこのエンブレムを見ると当時の熱いフットボール談義を思い出す。そういえば、PBJを作って日本で盛り上げよう!
という話もこのChineseでの席で出てきた話だった。『FC TUBAZA』のDNAを持つ私と副会長の山田はこれからも、PBJを通じて スペインの、そしてバルサのフットボールを日本に伝え続けていきたい。
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